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「私的大河ドラマ論『麒麟がくる』によせて」~その参~

2020年08月25日

大河ファン、殊に光秀マニアには、長すぎた3ケ月が明け、番組再開まで残り少々となりました。
放映話数も削られることなく、それどころか越年しての放映まで決まり、〇HKさんの視聴者の声を大切にする姿勢と、いざとなれば、次年の放送予定までも組み替える度量の広さに、驚きと感謝の念は尽きません。
少しドラマの内容になりますが、ここまでの流れは、道三、高政父子の長良川合戦から、信長の桶狭間合戦大勝利までが描かれ、光秀もその場面場面に顔を見せていました。
しかしここまで描かれた光秀の履歴は、まったくのフィクション。土岐明智城城主の嫡男に生まれ、美濃斎藤道三に仕える。その息、高政とはかつて共に学んだ学友。
その後、斎藤父子の争いに巻き込まれ、敵対した高政に居城・明智城を攻められ、落城と共に城を脱出。更には信長正室(帰蝶)とはいとこ同士の間柄で、早くから信長の知己を得る。 これら全ては後の創作で、ひとつとして史実と言えるものはないでしょう。(*江戸期に編纂の軍記物が下敷き)
しかし、記録に残らないこと自体は当たり前で、この空白の時代を、どうもっともらしく繋いでいくかが、脚本家の腕の見せ所でもあり、それはよく練られていたと感じます。
それが証拠に、この創作時代の光秀の奮闘を、毎週楽しみに視聴させてもらいました。そしてここから、記録に現れる本当の光秀がいよいよ描かれることになります。
光秀は、足掛け10年にわたり、越前朝倉領にいたようです。そこで、牢人生活を送っていました。ここからが、現在判明している、光秀の最も古い記録です。
この後、将軍後継者、足利義昭を保護した細川藤孝一行と遭遇することで、激動の時代に巻き込まれていきます。
あぁ、書きたいことは尽きませんが、それではキリがありません。ドラマの進行に合わせ、逐次私評を載せていきたく思います。
掲載しました画像は、先般尋ねた岐阜市の大河ドラマ館と、光秀出生の地と思われる「妻木城址」の風景です。


①岐阜城下信長居館冠木門


②岐阜「大河ドラマ館」内、稲葉城内セット再現


③京都白川に残る光秀首塚と墓石(伝承)


④土岐「妻木城址」入口


⑤「妻木城址」に残る石積み


⑥ ⑤の場所にある光秀・煕子の顔出しパネル




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